より子生い立ち


1984年5月13日。0歳。誕生。
栃木・宇都宮で誕生。名前は祖母がつけた。
生まれた時とても頭が長かったらしく、保育器の中にいる私を通りすがりのおじさんが「この子は…前世お坊さんだったな」と言って去っていったと、母から聞かされた。
1986年。2歳。卵巣ガン。
東京に移り住んでからまもなく、卵巣ガンが見つかり緊急手術。手術をしてから3年間の闘病生活を送る。
記憶は1歳からあるが、この2~5歳までの記憶が私の人生の中でもっとも覚えている記憶である。
闘病中の娯楽は、動けないので全て手先や頭を使う遊びだった。(カードゲーム、お絵かき、折り紙、ねんど、TVゲーム。一番好きなTV番組は、おかあさんといっしょと、志村けんさん、とんねるずさんの番組)
一時退院した時の家の中での遊びは「お医者さんごっこ」。ちなみに将来の夢は、お医者さんだった。
3歳のとき、祖父からおもちゃのピアノをもらい、自然と耳コピをしていろんな曲を弾くようになった。
1989年。6歳。幼稚園。
退院してから6歳を迎えた年、幼稚園年長から入園。しかし身体が弱く、良く熱を出して休んでいた。
病院の外来は12歳まで通う。
1990年。7歳。小学校。
小学校入学。音楽と図工が得意で、鬼ごっこが好きだった。またピアノ教室に通ったが、基礎だけやると、決められた通りに弾くのがいやで一年でやめてしまい、独学でピアノを弾き続ける。
1994年。10歳。ガン告知。
病院時代、一番の親友だった女の子に手紙を書いていた所、母から初めて自分の病気が「ガン」であることを告知され(親が子供に病気の詳細を告知するのは、タイミングもありシビアな事柄である)闘病生活を送っていた他の友人達はみんな、私が退院したあとに亡くなっていたことも知らされる。
この時、何故自分だけが生き残ったのかを考えた。そして、「私は人に"何か"を伝える使命があって生かされた」と思った。
同時に、「RPGツクール」というRPGを作るゲームソフトとの出会いで、RPGを通して物語を作り、そこにサウンドをつけることで初めて想像の世界が具現化する感動的瞬間に心を奪われた私は、「この想像を創造して人に"何か"を伝えることが自分のやりたいことでありやるべきことだ!」と確信し、「将来はスクエアに就職する!」(当時はまだエニックスと合併していなかった)と決意した。
その日から毎日毎日作曲を続けRPGを通して物語を作る日々を送る。そしてそんな私を、母は45%好きにさせ65%呆れていた。
1997年。13歳。中学校。
1年生の2学期に担任の教師と喧嘩をして、それ以来学校へはほぼ行かなくなった。
母はそんな私を45%好きにさせ65%呆れていた…。
しかしそのおかげで創作生活は本格化し、現在の自分の"基礎"が作られた。
また、同じクラスに偶然芸能人の子がいたり、TV番組の音付けをしているエンジニアの父親を持つ子がいたり、雑誌のモデルをしている子がいたりと、同じ学年に業界関係の仕事をしている人が多かった。そんな中、芸能活動をしているの友達のマネージャーに「音楽の勉強をしてみないか」とスカウトを受け、芸能界へ入った。
1999年。15歳。より子的戦国時代の開幕。
まだ中学生だった私は、訳も分からぬまま芸能界に入り、慌しさの中で気づけばシンガーソングライターになっていた。ラジオで歌を歌い、徐々に大きな流れにのみ込まれていく自分を感じていた。
ここで、将来自分のプロデューサーになるとは思いもしなかった当時ニッポン放送部長、吉田さんと出会う。
2001年。17歳。「Aizenaha」でインディーズデビュー。
デビューすることの重みを実感する間もなく、めまぐるしく過ぎる日々。このころの私の記憶は全くなくなっている。
唯一覚えていることは、この年の9月11日に起こった「アメリカ同時多発テロ事件」。である。
2002年。18歳。心を病む。
実はこの頃心を病んでしまっていた。
オールナイトニッポンのパーソナリティーを務め、自分の半生がドラマ化され、オールナイトニッポンのイベントで横浜アリーナで歌った。私の想像を超える大きなできごとがたくさんおこり、自分自身がそこに追いつけずに私の精神は限界を迎えていた。
一人旅で初海外、N.Yのグラウンドゼロへ行き、改めて自分がすべきこと、成るべき姿、歩くべき道、発信すべき音楽を、もう一度感じて帰国する。
2003年。19歳。活動休止。
このまま活動を続けたら自分が壊れてしまうと思い、活動を休止する決断をする。その大きな決断をした時に私を支えてくれたのが、プロデューサーである吉田さんである。
吉田さんもニッポン放送の方を辞めて新しい仕事を初めており、運命的なタイミングで再開した私たちは、一緒に音楽をやろうということになった。
そしてワタナベエンターテインメントへ移籍する。
2004年。20歳。アーティストより子としての活動が始まる。
新たな環境で、新たな仲間と共に、自分でしっかりと考えて歩みを進める"アーティスト"としての制作が始まる。

アレンジャーに中村 タイチ氏を迎え、1stアルバム「Cocoon」を制作。
タイチさんを通して様々なミュージシャンと出会い、仲間の輪が広がっていった。
2005年。21歳。1stアルバム「Cocoon」でメジャーデビュー。
リードトラックの「それでいいのですか?」を歌い、「Break the Cocoon」で初めて素直な自分の想いを歌うことで、今までを打ち破る第一歩となった。
2006年。22歳。宿命・卵巣腫瘍再び。
2ndアルバム「second VERSE」をリリースしたこの年、宿命とも言うべき出来事が起こる。
2度目の卵巣腫瘍を患い、全国ツアー目前で全公演をキャンセルせざるを得なくなり、緊急手術を受けた。この時の命の恩人はタイチさんである。
体調不良を訴えた私をすぐさま病院へ運ぶ判断をしたタイチさんがいなければ、私は今頃大変なことになっていたかもしれない。
術後、自分の為だけに歌うことで精いっぱいだった私の元に、ファンや友人からたくさんのメッセージが届き、「こんなにも待ってくれている人がいる、自分はこれだけの人に支えられて生きていた」ということに気づき、「今日まで十分自分の為に音楽をやれた。残りの人生は人の為に使っていく人生に変わるんだ」と思った。
その瞬間、ようやく暗闇に光が差して、私の人生は変わっていく。
退院後に3rdアルバム「願う」を制作し、この時新たに出会ったエンジニアでありサウンドプロデューサーの伊東俊郎さんの力を借りて無事アルバムを完成させた。
2007年。23歳。新たな自分が生まれた年。
3rdアルバム「願う」をリリース。感謝の気持ちから生まれたアルバムは、自分自身に人の温かさを教えてくれる作品となった。
この頃から徐々に小児ガンのチャリティー活動や、看護学校や病院などのチャリティーライブをはじめていった。
2008年。24歳。修行の一年。
4thアルバム「記憶」の制作が始まる。
6曲分を初の完全セルフプロデュース(作詞・作曲・編曲・歌録り)で、エンジニアの俊郎さんをサウンドプロデューサーに二人三脚で制作した。
また、俊郎さんの音楽的厳しい指導をうけた結果、私の音楽技術面の能力は飛躍的な進化を遂げていった。
修行は辛くて当たり前であり、人はやっただけ成長し進化するイキモノで、最も学んだことは、「精進や努力なくして、"感動"を作ることは出来ない」と言うことである。
同時に、「ゴールドリボン」というNPO法人の小児ガンの支援団体の理事長・松井さんとの出会いから、たくさんの体験者や関係者、そして昔の私のように病気と闘っているこども達と出会うことができた。
昔、小児ガンで成人してからも病気をしたが、今元気に生きてアーティストとして歌を歌っている体験者の私が、「小児ガン」を語ることで、大きな"意味"が生まれることを知り、これがもう一つの使命だと、本格的にチャリティー活動を始めるようになった。
2009年。25歳。叩き上げの年・自分に自信を持つ年。
4thアルバム「記憶」をリリース。このアルバムは、能力的に新たなステージへ進む為のアルバムとなった。
メジャーデビューしてからの作品の流れ、1部「Cocoon」、2部「second VERSE」、3部「願う」で一つの物語が完結。そして「記憶」で第二幕が開幕。
「記憶」の売上の一部をゴールドリボンに寄付し、チャリティー活動で全国各地を飛び回った。
人生でもっともたくさんの人に出会い、バリエーション豊かな体験をし、人と様々な会話をした一年となる。
最も心に刻みつけたことは、チャリティーライブでもワンマンライブでも、そのライブはお客さんにとって一度きりのライブだということ。
聴きに来てくれた人の中には、私がその人の「最後のライブ」になる人がいるということ。
改めて、そこに関わる全ての人達にとって、忘れられない、最高の一分一秒を作っていかなければいけない、そう思った。

pagetop

  • Home
  • Profile
  • Blog
  • Live
  • Media
  • Discography
  • shop
  • VOICE MENTAL TRAINER(現在休止中)
  • 出張ライブ(現在休止中)
  • よりサポ メルマガ